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一般社団法人
日本病態栄養学会事務局

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キャリアパス支援

キャリアパス支援

寺内 康夫

テラウチ ヤスオ

所属

横浜市立大学大学院医学研究科分子内分泌・糖尿病内科学 教授

日本病態栄養学会の未来を担う皆さんへ

私が学生時代を過ごした昭和60年台、日本は空前の好景気で、未来は明るい、24時間頑張ることも厭わない時代でした。医学部生であった私たちもそんな時代を謳歌しつつ、自分たちの活躍の場を考えていました。5年生の時から自発的に勉強会を開き、仲間と議論したように記憶しています。と言っても医学のみの学生生活ではなく、ゴルフ部員だった自分は、多い年は年間50日ほど、ゴルフ場で寝泊まりする生活を送り、早朝から日が暮れるまでゴルフ三昧で、同級生とともに6年生の10月のリーグ入れ替え戦に出場し、1部リーグ昇格を達成しました。

当時の研修医生活、平成卒、令和卒の皆さんには想像つかないでしょうが、楽しく、滅茶苦茶でしたが、自分でよく考え、実行し、患者・家族と向き合うことができました。私は2年間、東大病院および分院の内科研修を選択しましたが、どれだけ夜遅くまで働いても、病院に寝泊まりしても、手当は一切出ませんでした。その代わりではありませんが、指導医の先生方が外来や検診のアルバイトをもってきてくれて、研修医は交代でバイトに出かけました。当時はそれで日本の医療が回っていました。検診で数名の研修医が病棟を不在にするときは、病棟に残っている者が責任をもって急変時にも対応しました。病棟のすべての患者がどんな状況なのか、研修医ではありましたが、把握していたように思います。患者や家族への説明、看護師・その他のスタッフとの打ち合わせでは、研修医は主治医として立ち振る舞いました。あの時代だからかもしれませんが、午後6時くらいから研究会、説明会、飲み会が連日あり、もちろん自由参加ではありましたが、働いて、働いて、働いて、働いて、そして遊んでといった生活を送りました。

6か月ごと4つの内科を回った後に入局先を選ぶことになるのですが、私は最初に分院内科、物療内科、第1内科とまわり、最後が第3内科でした。分院内科、物療内科、第1内科は指導される先生方の面倒見がよくて、アットホームな雰囲気であったのに対し、第3内科は研修初日から治療方針に関して指導医の先生方が一触即発の状態で、とんでもないところに来てしまったと後悔しました。しかし、先生方が有り余るエネルギーを病院の外部にも向けて発信し、大きな成果を挙げられていることを知るにつけ、居心地はベストではなくても、自分を伸ばすことができる場所だと確信し、入局先を決めました。

当時の第3内科の教室員は臨床に携わりながら、分子生物学・発生工学の手法を取り入れ、世界と競う覚悟で日々研究に打ち込んでいました。そして、研究が何たるものか全くわかっていない若造でも、挑戦する機会を与えてくれました。2002年文部科学教官助手に採用されるまでの10年間、非常勤医員でしたが、逆に好きなことに打ち込むことができたと感謝しています。年に複数回、国際学会に行く余裕もありました。助手になって2年9か月で、縁あって横浜市立大学に異動し、教授就任21年を迎えました。着任当時、教室員は20名弱でしたが、今は現役約100名、OBOGも100名ほどいる教室となり、教授も5名輩出、20を超える地域中核医療機関にて糖尿病・内分泌・代謝領域を担当しています。教室を巣立った約50名がクリニックを起業し、糖尿病診療や地域医療に取り組んでおり、今でも大学と緊密に連携しています。また、2019年には、第22回日本病態栄養学会年次学術集会を横浜で開催させていただきました。料理の鉄人、陳健一さんを特別講演にお呼びしたのも良き想い出です。

昭和、平成、令和と時代は流れました。横浜市立大学での生活と昭和60年台~平成初期の東大医学部・東大病院での生活の共通点は、自分でよく考え、仲間を集め、成果を上げることを愚直に繰り返すことです。日本病態栄養学会の未来を担う医師・管理栄養士の皆さん、今は何となく閉塞感が漂う時代ですが、こうした時代だからこそ、ピンチを絶好のチャンスの機会と捉え、自分の限界を決めることなく、何にでも挑戦してみるのがいいと思います。そうすれば、支援・伴走してくれる仲間が絶対出てきます。ご発展をお祈り申し上げます。

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